自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
労作教育と寮教育
敬和学園の教育の特徴からはずせないのが労作教育と寮教育です。それらを抜きに敬和学園の教育を語ることはできません。労作教育と寮教育に共通するのは「営み」です。
漢字「営む」の語源は周囲をぐるりと壁で区切ってとりまき、その中に住むとあるが、壁を区切るには具体的な作業が必要です。その具体的な作業が労作であり、寮はまさに住むところです。
教育として共通するのは、教育と言うと、すぐに頭の中で考えることと考えてしまいます。しかし労作教育ならびに寮教育は共に体を動かすというように具体的な行動を伴います。教育の中に毎日の生活を営むような要素が含まれているところに、敬和学園の特徴があります。
不自由さと不便さの中にある寮生活
敬和学園は全校生徒の4分の1以上が寮生です。寮には規則と自由があります。
それまでの人間関係をほとんど横の関係だけで過ごしてきた、というよりは済ませてきた子どもたちにとって、見える見えないに関わらず、相当はっきりとした縦関係がある寮生活はきびしいはずです。子どもたちは、寮生活を通して、それまで自分が家庭を中心に当たり前にできてきたこと考えてきたことが、そうではないということを思い知らされるのです。
それは別にたいしたことではありません。例えばテレビであるが、1年生が見たい番組を見ることはほとんどないでしょう。まずテレビの台数が少ないのです。見たい番組があっても、上級生が他の番組を見ている時に、1年生がリモコンで他のチャンネルに変えたら、どうなるでしょうか。
そういう小さな現実の積み重ねの中で、1年生は大げさな意味ではなく、世の中には価値観の違いがあること、思い通りにはならないことがたくさんあること、を学ぶのです。団体生活であるから消灯時間があります。テスト前、期間中にもあります。だから勉強したい子どもたちは朝早く起きるということを始めます。
私の住まいの後ろはめぐみ館のホールになっています。冬のさなかの明け方4時頃に、遠くのほうからイスを引く音が聞こえてくることがあります。布団の中でうつらうつらしながら、その音を聞くことになります。寮生活はそれまでの生活と比べて数段不自由であり不便です。しかし、子どもたちはその不自由さと不便さの中で、工夫することを身につけていくのです。
他者に対する気遣いができるようになります。不自由と不便が人を育てるといってもいいのです。寮生活の中心にあるのは言葉です。事あるごとに話し合い、ミーティングが開かれる。面と向かった言葉のやり取りをすることを通して、寮生は生きる力を身につけていくのです。
キリスト教を体現している寮生
敬和学園の教育の根底にあるもの、それはキリスト教です。キリスト教に基づいて人格教育を行うのが敬和学園です。最近つくづく思うのは、寮生は敬和学園の教育の根底にあるキリスト教を体現しているということす。
キリスト教が考える力は強さよりむしろ弱さにあります。新約聖書コリントの信徒への手紙Ⅱの12章で、パウロが言っています。「むしろ大いに自分の弱さを誇りましょう。私は弱い時にこそ強いからです」。
いつの時代にも強さ、強いものが求められ、弱さ、弱いものは排除されることがほとんどです。弱さが中心に置かれることはまずありません。しかし、敬和学園の現実はどうでしょうか。学校生活の中心的な役割や働きを数の少ない、力関係からすれば弱く小さいはずの寮生が担うことになっているのです。